眼科医の厚意のおかげで、千泉は失明の危機を免れることができた。医師が「栄養がつく食べ物を食べさせてあげなさい。養生しなさい。」と言ってくれたおかげで、祖父も「おかあさん(祖父の後妻)」も、優しくなった。そうはいっても、やるべき家事はたくさんある。負担が減ったとは言え、農作業もある。農業は、蒔くべき時に種を蒔き、収穫すべき時に収穫しなければならない。農業は待ってくれない。千泉は「私は7歳から、働きづめに働いたのよ。」と繰り返す。千泉は、働くことが当たり前、手足を動かすことが当たり前、そういう環境で生きてきた。だからこそ50年も自分の店を続ける事ができたのだろう。86歳になった千泉の自宅で、インタビューさせてもらった時「本当によく動く人、気配りの人だな」と感じた。約束の時間に行くと、まず手料理を振舞ってくれた。インタビュー中も、こまめにお菓子や珈琲を出してくれ、その合間に茶碗も洗っていた。話の途中に電話がなれば丁寧に対応し、ご近所さんが差し入れを持って来たら、雑談で楽しませる。そうこうしている間に、夕方が近づくと「夕食も食べていってね」と料理の準備に取りかかる。千泉は料理が好きだった。自分の料理で喜んでもらうのが何よりの楽しみだった。

成長するにつれて、家事や農作業の手際も良くなってきた。戦後の混乱、食糧難も落ち着いてくる。幼い頃、大好きだった日本舞踊や三味線の稽古も再開できるようになってきた。後に千泉は、日本舞踊と三味線のお師匠さんとして、自分の教室を持った。しかし学校を卒業した頃は、別の世界に憧れていた。千泉は、美容師になりたかった。実際に美容師を目指して修行していたが、これは挫折した。肌が敏感なため、パーマ液による肌荒れがひどく、断念せざるを得なかった。

美容師を諦めた千泉は、「やっぱり私は、芸の世界で生きていこう」と誓う。千泉は大阪に行き、日本舞踊と三味線の稽古に励む。東京にも修行に行ったと言う。千泉は大阪や東京で、多くの芸能人と知り合った。芸能人も、日本舞踊や三味線を習っていた。千泉はブランクがあるとは言え、3歳から7歳まで夢中になって稽古をした、その蓄積がある。あくまで「芸の一つ」として日本舞踊や三味線を習う芸能人と、お師匠さんを目指していた千泉とでは、意気込みが違った。この時期に知り合った芸能人で、漫才などテレビのスターになった人もいる。三味線を弾きながら漫才をする、上方漫才の重鎮と言えば、知っている方も多いと思う。

千泉は、大阪と東京での修行時代のことは、多くは語らなかった。「日本舞踊と三味線なら負けない、これで食べていけると思うまで、がんばったのよ。でもね、やっぱり大阪や東京はライバルも多いしね。女が一人で食べていくのは、なかなか難しいなと思った。いいお友達もたくさんできたけど、そろそろ地元に帰っても良いかなって思ったのよね。だから、地元に帰ったのよ。田舎にはライバルも少ないし、若かったし、お座敷でも教室でも、引っ張りだこになってね。これで、生きていけると思ったわよ。」

千泉は22歳の時、一度目の結婚をする。女の子と、男の子、二人の子供を授かった。夫は寡黙で真面目な男性だった。夫は土木会社の現場監督だった。千泉は結婚も離婚も2回ずつ経験している。一度目の離婚理由を、聞いてみた。「そうねえ、いい人だったわよ。離婚したのは、私が悪かったのよ。彼は悪くないわ。夫は仕事で、不在がちだったのよ。土木会社だから、トンネルを掘ったり、ダムを造ったり、忙しくしていたわ。遠くの現場に単身赴任して、年に一度か二度しか会えない、そんな生活だった。寂しかったわね。私は日本舞踊と三味線で、一人でも生活して、子供達を育てていける自信があった。だから、私から離婚してと言っちゃったのよ。悪いことしたなって思っているわ。その彼も、もう亡くなってしまったけどね。だから、一度目の離婚は、私の責任。」

離婚した後、千泉は生命保険の仕事も始めた。いわゆる生保レディーである。たいそう成績が良かったそうだ。それはそうだろう。千泉には予知能力がある。お客さんに言うことはなかったそうだが、「人の将来が見える」という能力は、生命保険の営業において最強の能力である。千泉が語る言葉には、説得力があった。次から次に、生命保険に加入してくれたそうだ。生保レディーとして稼いだお金を元手にして、33歳で最初のお店を出した。(続く)