千泉は失明する直前だった。学校から帰り、農作業をしている時、目が見えなくてフラフラと倒れた。たまたま近くを通りかかった近所のお兄さんが、自転車に乗せて眼科医に連れて行ってくれた。舗装もされていない山道を20キロも走ったそうだ。町の病院に行くと、眼科医が丁寧に診察してくれた。応急処置をして、目の検査をしてくれた。祖父と「おかあさん」が駆けつけた。医師の説明では「原因は栄養失調が考えられる、このままだと失明するかもしれない」と言うことだった。祖父は、なんとか治してもらえないでしょうか、と懇願する。医師は「治療法を考えるから、後日あらためてお越しください」と、お引き取り願った。
千泉の目の治療は順調に進んだ。医師は、最新の薬を千泉に施してくれた。いつの時代も、新薬は高い。孫を栄養失調にさせるような祖父に、新薬のカネを出せるわけがない。医師は「新しい治療法を学ぶ、新しい薬を勉強する、これは私の研究です。お金をいただく訳にはいきません。安心して治療に専念なさい。栄養がつくものを、食べさせてあげてください。」そう言って祖父を安心させた。千泉はインタビュー中、何度も「私が目が見えるのは、くにとし先生のおかげよ。くにとし先生、本当にありがとうございます。」と繰り返していた。
医は仁術。教師は聖職。こういった言葉がある。この言葉には、医療従事者や教職者のモラルを高める、そういう意味もあるのだろう。現代は、ある程度のお金を出せば医療も教育を受けることができる。しかし、ほんの数十年前までは、医療も教育も高級品であった。庶民には手が届かないものであった。そのような世の中で、「治療代をもらえくても、患者に新薬を投入してあげる。」「進学する学費を工面してあげる。」このように物心両面で支援していた先生方が、全国にたくさんいたという事実を、忘れてはいけない。野口英世の若い頃にも、このような先生方がいた。
少しでも患者の役に立ちたいと願う医師がいる。学問の道をひらいてあげたいと願う教師がいる。助けてもらった人が、大人になって「今の私があるのは、あの先生のおかげです。」と語り、その思いが受け継がれていく。こうして私たちは、あの時の「恩」を返したい、恩返しをしたいと願い、思いをつないできた。86歳になった千泉も今、このような気持ちで語っている。
昭和11年に千泉が生まれ、母が亡くなるまでの7年間を過ごした、大阪。千泉の生まれ育った街は、谷町と聞いている。商店が並び活気のある繁華街であった。千泉の人生に思いを馳せていると、一人の人物を思い出した。その名は、森信三。名著『修身教授録』の著者である。
森先生は若い頃、大阪の天王寺師範学校(現在の大阪教育大学)で教鞭をとっていた。『修身教授録』は、森先生の授業の記録である。教師を目指す若者に、修身(現在でいえば、道徳)について教える授業だった。森先生は哲学の専門家だが、堅苦しい話はせずに、若者が実践できるように現実的な教えを好む人だった。授業中の雑談で、大阪の各地を紹介しながら「諸君は、あの街には行ったことがありますか。あの書店は、なかなか良いですよ。」そういった情報も教えていた。
実は、千泉の生まれた谷町と、森先生が教えていた天王寺は、すぐ近くである。千泉は昭和11年から18年まで谷町にいた。そして『修身教授録』に収録された授業は、昭和12年から14年に行われている。まだ幼かった千泉と、森先生や生徒達が、谷町の繁華街ですれ違った可能性は充分にあり得る。あくまで可能性に過ぎないが、この可能性に気がついた時、著者は何か運命のようなものを感じた。ちなみに著者にとって一番大切な本が『修身教授録』であり、もし無人島に一冊だけ持って行くとしたら、この本だと決めている。(続く)