間もなく、8月15日を迎えます。例年この時期は、妻と一緒に、福岡県護国神社に参拝します。今年は14日か15日に参拝する予定です。ところで先日のブログで、「若い頃、自衛官になりたかった」という話を書きました。そもそも私は、なぜ自衛官になりたいと思ったのか、その理由を自問自答してみました。
私は高校2年の春、拳銃の実弾射撃を経験しています。いま思うと、あの体験が、自衛官を意識した原風景です。私は福岡県で生まれ育ち、父も祖父も地方公務員でした。農林業も兼業しており、3世帯同居でした。近所のアメリカ人が経営する英会話教室に通っていたのですが、先生の帰省タイミングに合わせて、アメリカ西海岸に同行させてもらったのです。私の他に、20代男性の生徒が同行していたのですが、彼が「拳銃射撃を体験したい」とリクエストを出していました。私は未成年でしたが、現地のアメリカ人から拳銃の使い方を教わり、実弾射撃を体験しました。場所は、ごく普通の、個人宅の裏庭(郊外で、隣家まで距離があった)でした。水を入れた空き缶を並べて的にし、数人が横に並んで、撃つのです。あたると、的が良い音を出すので、けっこう夢中になった記憶があります。拳銃がよく手入れされていたのか、それとも初心者向けの銃なのか、けっこう上手に的にあて、アメリカ人から褒められた記憶があります。
たった2週間のアメリカ旅行でしたが、九州の農家で生まれた私にとっては、刺激的な経験でした。帰国してから、書店に行く度に、自衛隊や軍事に関する本を立ち読みしていました。ある時、柘植久慶さんの本を読んで、母に「フランス外人部隊に入りたい」と言ったら、あきれた顔をされました。
巨漢のアメリカ人に囲まれた経験から、体を鍛えたいと思い、極真空手に入門しました。高校3年の11月まで空手の稽古をがんばりました。本当の入門理由は、通学途中の駅前で、ガラの悪い連中に囲まれてオドオドしている時、たまたま好きな女の子が目の前を通り、非常に自分が情けなく感じ、体を鍛えたいと思ったのが本音です。でも、巨漢のアメリカ人に囲まれたり、拳銃射撃の経験がなかったら、あそこまで真剣に稽古しなかったと思います。
大学で県外に出てからも、空手の稽古は続けました。進学先でも極真空手の道場に入りましたが、数ヶ月で辞めました。当時は(極真空手の)大山総裁が亡くなられた直後で、組織分裂の過渡期を見まして、いろいろと感じるところがありました。別の空手道場で、真剣に稽古をしました。師範や指導員、兄弟子に恵まれ、たいへんかわいがっていただき、稽古に没頭しました。空手道場の社会人の先輩方にかわいがっていただき、人間関係の機微を学んだことが、後の営業マン人生にも、大いに役立ちました。大学1年の時に、自衛隊の幹部候補生学校の見学にも行ったというのは前述しましたが、学生時代は警察官か自衛官になりたい、または企業経営者になりたいと、思っていました。ちなみ、空手の修行の一環で、試し割り(ブロック・瓦・木材を割ること)を行います。自分の演目で、縦に置いた氷柱を「後ろ蹴り」で、ぶち抜いたことが、今でも記憶に残っています。
また、漫画「サンクチュアリ」を読んだことは、国防や国益を考える、最初のきっかけになりました。自衛官が主役の漫画ではないのですが、「国」というものを強く意識した作品でした。先月、安倍晋三元首相が銃撃された時、参議院選挙の真っ最中であったため、「サンクチュアリ」の一場面が脳裏に浮かびました。渡海さんが、銃撃された主人公を抱えながら「お前ら、選挙にいかんか~!」と叫ぶ場面です。
このような経験から、18歳~21歳くらいまで、自衛官という職業を意識しておりました。しかし私は、農家の長男であり、幼い頃から「あとをつげ」と言われて育ちました。全国転勤の自衛官は、親が反対するだろうと思い、願書を出すこともしませんでした。
2022年5月、「思いをつなぐ 英語で学ぶ、日本の矜持。」という本を書いたのですが、出版社(心書院株式会社)の営業担当者から「自衛官の皆様から、ご評価いただいている」と聞きまして、誠に嬉しく思いましたので、本日のブログはこのような記事とさせていただきました。
私は自衛官の皆様に心から敬意を抱いております。そして警察・海上保安庁、医療・消防職員の皆様にも、同様に敬意を抱いております。私たちが安心して暮らせるのも、皆様のおかげであります。誠にありがたく、感じております。皆様の御健勝を、心から祈念申し上げます。